ローマ書十章1〜21

今日は、ローマ書十章1〜21です。


有名な章なのに、まだ載せていなかった


ようです。今日は、ブログ開設一年になったと


はてなブログからメールがありました。


私自身この一年少しは、成長があったのでは


ないかと感じております。読んでくださった


方に感謝したいと思います。


ありがとうございます。🙇‍♀️



「兄弟たちよ。わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈は、彼らが救われることである。 わたしは、彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。 なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。 キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終りとなられたのである。 モーセは、律法による義を行う人は、その義によって生きる、と書いている。 しかし、信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろうかと言うな」。それは、キリストを引き降ろすことである。 また、「だれが底知れぬ所に下るであろうかと言うな」。それは、キリストを死人の中から引き上げることである。 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。 しかしわたしは言う、彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ 「その声は全地にひびきわたり、 その言葉は世界のはてにまで及んだ」。 なお、わたしは言う、イスラエルは知らなかったのであろうか。まずモーセは言っている、 「わたしはあなたがたに、 国民でない者に対してねたみを起させ、 無知な国民に対して、 怒りをいだかせるであろう」。 イザヤも大胆に言っている、 「わたしは、わたしを求めない者たちに見いだされ、 わたしを尋ねない者に、自分を現した」。 そして、イスラエルについては、 「わたしは服従せずに反抗する民に、 終日わたしの手をさし伸べていた」 と言っている。」

‭‭ローマ人への手紙‬ ‭10:1-21‬ ‭口語訳‬‬

https://www.bible.com/1820/rom.10.1-21.口語訳


天のお父様感謝致します。


あなたは、私たちが憎むべき人でも愛されます。


どんなに反抗し、神はいないと


言う人に対しても恵みを与えられます。


そして、わたしから命を得なさいと言われます。


あなたに繋がっていないと、切られた枝の


ように、枯れて死に繋がるからです。


あなたは、わたしに繋がり、命を得て


たくさんの実を結びなさいと教えて


下さりました。あなたは、いつでも手を


差し出して下さいます。感謝致します。


感謝して、愛する主イエスキリスト様の


御名によってお祈り致します。アーメン


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