エレミヤ書八章1〜22
今日は、旧約聖書の
エレミヤ書を引用
させて頂きました。
エレミヤは紀元前627年〜
の時代に預言者として
神様からの言葉を
伝えた方です。エレミヤは
『涙の預言者』と言われて
います。民が神様に背を向けていたのでこれから
起こる災いについて、
(ユダ王国のバビロン捕囚)を神様から聞いていたからです。
「主は言われる、その時ユダの王たちの骨と、そのつかさたちの骨と、祭司たちの骨と、預言者たちの骨と、エルサレムに住む人々の骨は墓より掘り出されて、 彼らの愛し、仕え、従い、求め、また拝んだ、日と月と天の衆群の前にさらされる。その骨は集める者も葬る者もなく、地のおもてに糞土のようになる。 この悪しき民のうちの残っている残りの者はみな、わたしが追いやった場所で、生きることよりも死ぬことを願うようになると、万軍の主は言われる。 あなたは彼らに言わなければならない。 主はこう仰せられる、 人は倒れたならば、また起きあがらないであろうか。 離れていったならば、帰ってこないであろうか。 それにどうしてこの民は、 常にそむいて離れていくのか。 彼らは偽りを固くとらえて、 帰ってくることを拒んでいる。 わたしは気をつけて聞いたが、 彼らは正しくは語らなかった。 その悪を悔いて、 『わたしのした事は何か』という者はひとりもない。 彼らはみな戦場に、はせ入る馬のように、 自分のすきな道に向かう。 空のこうのとりでもその時を知り、 山ばとと、つばめと、つるはその来る時を守る。 しかしわが民は主のおきてを知らない。 どうしてあなたがたは、『われわれには知恵がある、 主のおきてがある』と言うことができようか。 見よ、まことに書記の偽りの筆が これを偽りにしたのだ。 知恵ある者は、はずかしめられ、 あわてふためき、捕えられる。 見よ、彼らは主の言葉を捨てた、彼らになんの知恵があろうか。 それゆえ、わたしは彼らの妻を他人に与え、 その畑を征服者に与える。 それは彼らが小さい者から大きい者にいたるまで、 みな不正な利をむさぼり、預言者から祭司にいたるまで、 みな偽りを行っているからである。 彼らは手軽に、わたしの民の傷をいやし、 平安がないのに、『平安、平安』と言っている。 彼らは憎むべきことをして、恥じたであろうか。 すこしも恥ずかしいとは思わず、また恥じることを知らなかった。 それゆえ彼らは倒れる者と共に倒れる。 わたしが彼らを罰するとき、 彼らは倒れると、主は言われる。 主は言われる、
📍わたしが集めようと思うとき、 ぶどうの木にぶどうはなく、 いちじくの木に、いちじくはなく、 葉さえ、しぼんでいる。📍
わたしが彼らに与えたものも、 彼らを離れて、うせ去った」。 どうしてわれわれはなす事もなく座しているのか。 集まって、堅固な町にはいり、 そこでわれわれは滅びよう。 われわれが主に罪を犯したので、われわれの神、主がわれわれを滅ぼそうとして、 毒の水を飲ませられるのだ。 われわれは平安を望んだが、良い事はこなかった。 いやされる時を望んだが、かえって恐怖が来た。「彼らの馬のいななきはダンから聞えてくる。 彼らの強い馬の声によって全地は震う。 彼らは来て、この地と、ここにあるすべてのもの、 町と、そのうちに住む者とを食い滅ぼす。見よ、魔法をもってならすことのできない、 へびや、まむしをあなたがたのうちにつかわす。 それはあなたがたをかむ」と主は言われる。 わが嘆きはいやしがたく、 わが心はうちに悩む。 聞け、地の全面から、 わが民の娘の声があがるのを。「主はシオンにおられないのか、 シオンの王はそのうちにおられないのか」。 「なぜ彼らはその彫像と、 異邦の偶像とをもって、わたしを怒らせたのか」。 「刈入れの時は過ぎ、夏もはや終った、 しかしわれわれはまだ救われない」。 わが民の娘の傷によって、わが心は痛む。 わたしは嘆き、うろたえる。 ギレアデに乳香があるではないか。 その所に医者がいるではないか。 それにどうしてわが民の娘は いやされることがないのか。」
エレミヤ書 8:1-22 口語訳
https://www.bible.com/1820/jer.8.1-22.口語訳
赤い📍の間の箇所を読んだ
時に下記の新約聖書を
思い出しました。
「そして、道のかたわらに一本のいちじくの木があるのを見て、そこに行かれたが、ただ葉のほかは何も見当らなかった。そこでその木にむかって、「今から後いつまでも、おまえには実がならないように」と言われた。すると、いちじくの木はたちまち枯れた。」
マタイによる福音書 21:19 口語訳
https://www.bible.com/1820/mat.21.19.口語訳
以前意味が分からず調べた
事がありました。
イエスは意味なくイチジクを
枯すのだろうか?
他の福音書とマタイによる
福音書では少し視点が違う
感じでしたが、
イエスは、祭司、イスラエルの民にうわべだけの信仰しか見れなかった、心から霊的な
信仰が見られなかった。
型だけで実が実っていなかった事を見抜いていた。異邦の
偶像を拝んでいた。
要約するとこんな感じでした。私は心から神様を信じ
イエス様と繋がっていないと
枯れてしまうと言う事を
弟子達にわかりやすく
見せてくださったのかなと
思いました。他にも種まき
の例えや主人と僕の例えにも
近いかなと私は感じました。
伝えたい事は同じで信仰の
実を植えたけど育ちはしても
立派な実をつけた木がないと
仰っているのだと思います。
聖書の中にはこういった
比喩が多いのですが
伝えたい事が理解出来ると
とても嬉しいです。
この枯れた木を見て驚いて
いる弟子達に、信じて命じれば山も動かせると言っておられます。全ての創造主であられる神様は、世界中の人が
信じて救われる事を望んで
おられます。
聖書の中にも、わたしは
ここにいると語られて
います。目に見えないものは
現実にないのでしょうか?
神様は愛そのものです
愛は目に見えなくても
存在します。
人々の行動から感じる
事が出来ます。
神様を信じて受け入れ
る事で心が変わり行い
にも現れると思います。
世界中が正しい愛で
満たされますように。
愛する天のお父様感謝
いたします。
愛を教えてくださり
恵みを与えてくださり
ありがとうございます。
愛する主イエスキリスト様
の御名によってお祈り
致します。アーメン