イザヤ書五十三章1〜25
今日はイザヤ書五十三章1〜25です。
「だれがわれわれの聞いたことを/信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか。 彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。 彼は暴虐なさばきによって取り去られた。その代の人のうち、だれが思ったであろうか、彼はわが民のとがのために打たれて、生けるものの地から断たれたのだと。 彼は暴虐を行わず、その口には偽りがなかったけれども、その墓は悪しき者と共に設けられ、その塚は悪をなす者と共にあった。 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。」
イザヤ書 53:1-12 口語訳
https://www.bible.com/1820/isa.53.1-12.口語訳
この箇所は、イエスの事を預言して語って
います。咎がないのに打たれて命をたたれ
その代の人たちは、誰も自分たちの為に
彼が命をたたれたことにも気付かずにいた
こと、この預言はイエスがこの世に
お生まれになる、600年くらい前に預言者
イザヤによって語られた言葉です。
イエスは、聖書に書かれている事は
自分を証明するための物だと語って
する物で新訳聖書は、旧約聖書を説明
するような物で、どちらも聖書を
知る上では必要不可欠な存在なんですね。
天のお父様感謝いたします。
私たちは、聖書の最後の時代にいるため
歴史を見て聖書の成就を見てきています。
きっと、紀元前ではこの預言の意味は
分かっていなかったかもしれません。
現代では、自分で聖書を読む事も
考える事も出来ます。
是非まだ、聖書を知らない人たちにも
聖書を知ることが出来ますように
心より、感謝して主イエスキリスト様の
御名によってお祈りいたします。
アーメン